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2個目のブログ。

桐谷ヨウのセカンドブログ。お気に入りのモノを紹介したりします。

『物語の体操―みるみる小説が書ける6つのレッスン』/大塚 英志

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2003年刊。民俗学者/漫画原作者・大塚英志が自身の「小説家養成講座」の講義を再編集した内容。タイトルは「物語を書くための訓練」という意味です。主観的評価=☆×5。

この本は著者自身が本文で明示しているように、二つの意味合いを持っています。一つは小説のどこからどこまでが誰にでも書ける「テクニック」たる部分かを明らかにすること。そして二つ目は、それを明らかにすることによって「テクニックでは書けない領域」を明らかにすること、です。


前者の意味は、それによって無意味に閉じている「小説を書く」行為が、興味を持つ者たちに開かれるという意味合い。後者の意味はそういった領域が存在するのであれば、それこそがまさしく「(誰にでも書けるわけではない)文学」という領域を証明するという意味合いです。

大塚英志の大きな主張は小説=お話=「物語」はいかに作られているのか?を解き明かして、それを作れるようにしていくことです。それを体系的に鍛えるメソッドを紹介しています。そのメソッドを裏付けるのは大塚英志が因数分解した小説の要素であり、メソッド自体は大塚英志の文芸批評が多分に含まれた内容になっています。

それらをいくつか紹介していきましょう。

物語の構造を知る:"タロットカード(キーワード)でストーリーを作る。"**

物語は「構造」で出来ている。それを自分の力で構築出来ないのであれば、自分の外側に縛ってもらえば良いというもの。具体的にはタロットカードの配置に機能を持たせ、出てきたタロットカード(例:未来の位置に誠実)をベースに物語を構築するという内容。

このように「自分の外側に物語を誘発してもらう方法」を紹介しています。例えば、既存の物語の表層面を取り払った構造をそのまま拝借して(例:手塚治虫「どろろ」と大塚英志「摩陀羅」)新しい物語を創作したり、神話(ギリシャ・北欧神話・英雄伝説)をベースにしたプロットの方程式にのっとった創作を行うメソッドです。これらは「物語る」行為を獲得していない者たちに、「物語る行為」を体に染み込ませていく訓練法なのです。これらのベースになっているのは「物語の類型」でしょう。

これは僕の考えですが、「すべての表現物の数だけ表現があるわけではない」ということだと思います。表現は数を知れば知るほどパターン認識されていくものであり、表現は不自由であり、だからこそ本当の創作は困難なのです。ただし、それを知らなければまた、創作もできないということなのでしょう。

村上龍になりきる:"「5分後の世界」「ヒュウガ・ウイルス」と同じ舞台設定で小説を書く。"

文芸批評では村上龍の出現は文学のサブカルチャー化と等しく語られます。その評価の上で村上龍は自身の作品を二次創作化していることを大塚は指摘します。続編でありながら続編でない、それは舞台設定(世界観)のみが等しい、別の物語である、と。これはメディアミックスと同じことを文学上で行っているという意味で他の領域(アニメ・ゲーム)を食いつぶす驚異として評価しています。

村上龍になりきる(彼の小説を焼き直させる)トレーニングは、世界観の構築が未熟な書き手にそれを免除し、純粋に物語の構造を創ることに専念させるメソッドです。

つげ義春をノベライズ化する:"「私」を書くか?「キャラクター」を書くか?"

文学的(もしくは詩的・私的)漫画家としてつげ義春はマイナーながらカルト的人気を誇る人です。「ガロ」誌とセットで語られ、「ねじ式」はサブカル上で余りにも有名な作品だと思います。

彼の私的小説風の作品をノベライズ化することで、「私」を語ることを誘発させるメソッドです。一人称と三人称の選択をベースに語っていますが、おそらくそれ自体は問題ではなく、「私」を書くこと/「登場人物」を書くことにより、自我を書くスタンスか否かを問うているのです。(ただし、キャラクター小説が悪いと言うわけではなく、その境界線は曖昧なものであり、また後者を選択したとしてもライトノベルに進む可能性も指摘しています)

「行って帰ってくる物語」を書く

大きく3つ挙げてみました。全体として、大塚英志は「行って帰ってくる物語」を書くこと主眼を起きます。これは別の著書「ストーリーメーカー」の指摘を挙げて例をあげれば、宮崎駿のアニメ映画です。ほとんどの作品は異世界に行って、少し成長した主人公が現実に帰ってくるという物語の構造になっています。この構造により「物語の主題の訪れ」を召喚することを意識して欲しい、と書いています。

他にも興味深いことが指摘されていて、吉本ばななは「きれいな日本語が書ける」と似たようなニュアンスで母国語として「端正な物語構造が書ける作家」であり、(純文学で評価の高い)村上春樹や中上健次は外国語のようにそれを獲得するのに苦労した作家ではないだろうか、ということが述べられています。これは村上春樹や中上健次の初期作品を読んだことがある人はうなずけるはずです。(村上春樹の場合はその端正になっていない構造自体が特徴になっているのですが…。ちなみに言ったことないですが僕は「キッチン」をすごい小説だと思っています。)

僕はテクニックだけでは書けないもの=「文学」とは必ずしも思いませんし、また、テクニックだけで書けるもの=「ライトノベル」では必ずしもないと思います。(大塚英志もそう思っているわけではないでしょう) ただ、大塚英志がこの本で試みた「小説のなかで誰にでも開かれる部分を明らかにすること」「それだけではない部分は何か?を明らかにする」という行為は非常に素晴らしいと思います。同時に、これを読むだけで(大塚英志のフィルターとはいえ)文芸の文脈を吸収できるのは非常に知的好奇心を満たしてくれます。

小説家志望の人はもちろんですが、それだけではなく、物語が好きな人、物語とは何なのかを知りたい人、もっと風呂敷を広げてしまえば文学とは何か?小説とは何か?を知りたいすべての人にオススメの教養本です。


※移行元記事
『物語の体操―みるみる小説が書ける6つのレッスン』/大塚 英志 - My Favorite, Addict and Rhetoric Lovers Only はてなブックマーク - 『物語の体操―みるみる小説が書ける6つのレッスン』/大塚 英志 - My Favorite, Addict and Rhetoric Lovers Only